2018年09月01日

円グラフではなくて、球だった。

結婚した当初
24時間の円グラフを頭において
今までの生活にプラスして、どうやって家事の時間を作るのか
悩んだことがありました。

「人が100%頑張っているところを、私は120%頑張ればいい」
そうすれば時間は24時間で変えられなくても
きっと、何とかなる。
そう思って、睡眠時間や自分の時間を減らせばいいのだと
簡単に考えていました。

でも実際は、そうすると自分が壊れるだけだと気付きました。
所詮人は「100%」しか持っていないし「24時間」しか持っていない。

家族が2人から3人になる時
同じような思いで「愛情」について考えたことがありました。
「時間」と同じように、私は頭に円グラフをおいて
今までは夫に100%注いでいた愛情を、半分子どもに注ぐのだと
そういうものなのだろうと、思っていました。

だけど実際に子どもが産まれてみたら、可愛くて可愛くて
可愛いだけではなくて大変で大変で大変で
「愛情」も「時間」も共に、「子ども」への割合がほとんどに
なっていたように思います。
1歳を過ぎ、少し落ち着くようになった頃
その割合は、夫へも子どもへもきちんと注げるようになり
今度は、家族3人から4人になる時が、やってきました。


私は
円グラフをまた割らなくてはならない。
栞に注いできた愛情の分を分けて、二人目に注がなければならない。


そんな風に思って、栞への申し訳なさや悲しさ、
これで本当に良かったんだろうかという気持ちが湧いて
自分を責めてきたような気がします。
赤ちゃんが産まれてくるのが怖いという気持ちもあり
自分はどんな風に変わってしまうのだろうか、と。

だけど
ここへ来て、そもそも「愛情」は「円グラフ」ではないのでは。

そう思えるようになりました。


引いたり割ったりするものではなく
足したり掛けたりするものなのではないか、と
思えるようになりました。

そもそも
夫への愛情100%だったのを
夫と栞とで50%ずつに割った。のではなく、
夫への愛情=100kgの球を持っていたとして
栞への愛情=100kgの球が加わって、
私は200kgの愛情を持った人間になった。のだと。

そして
赤ちゃんが産まれたら
私はきっと300kg分の愛情を持った人間になれるのだと。

何百kgの愛情を持っているかが
必ずしも幸せの度合いと比例するとは思わないけど、
私にとって、また一人愛すべき存在が産まれることは
決して「申し訳ないこと」でも「怖がること」でもないのだ、と。

きっとそうなのだと。
そういうことにしようと。

私の中で、決めました。


きっと人は
何百kgもの愛情を持っていられるように出来ているのだと
いくらだって増やせることが出来るのだと
思うのです。

その何百kgってのが、重たくて重たくて
ずしーんとのしかかるのはとても辛いことなので、
私の中でのイメージは「重さ」はなくて
風船のようにプカプカと浮いているイメージです。
紐でつながって私の上にプカプカ浮いているのです。

大きな大きな、愛情の「球」が。




posted by ちぃ at 00:00| 日記