喪中ハガキが届きました。
先生と出会ったのは
小学4年生1学期の始業式でした。
学校で一番厳しい男の先生が、私のクラスの担任と発表され
「げっ…!」と思ったのを覚えています。
白髪交じりの短髪で、シュッとしてて
蛍光色のランニングウェアを着て
冬でも走って学校まで来ていて
笑うと真っ白な歯が“にやっ”と光って
ギターを弾きながら歌も歌ってくれて
どんなことものんびりとという意味を込めて
「かたつむり」のサインが、トレードマークで
でもやっぱりとにかく厳しくて、怖い先生でした。
小学4年から6年までの3年間
私の担任の先生でした。
その3年間で、私は本当に多くのことを
先生から学びました。
先生のクラスの生徒は「自由勉強」と「日記」を
毎日やらないとなりませんでした。
「自由勉強」は、どんなことでも良いから
何かを「勉強」すること。
私は、“今日はどんなことを勉強しようかな”と
自らやることを「見つける」という勉強の方法を
身につけました。
「日記」は、どんなことでも良いから
毎日何かしら書くこと。
私はとにかく文を書くことが得意で
良い日記を書いたときには、先生がクラスの皆に
紹介してくれることもありました。
日記の延長として
先生は何か少しでも変わったことや、行事がある度に
クラス全員に「作文」を書かせました。
一年間に書く作文というのは、本当にものすごい量でした。
5年生の時に、運動会の鼓笛隊のことを書いた作文を
横浜市の文集に載せてもらった時には、
先生がアドバイスをくれて、何度も何度も手直ししたのを
覚えています。
国語の授業では「詩」を書くのが好きでした。
作文や詩を書くときの、技法。
良い文を書くときの、コツ。
そういったものを先生からたくさん学びました。
いつの間にか私は、国語が得意で大好きになりました。
これがのちに、私が国語の先生になりたいという夢を持つ
きっかけになりました。
そして何よりも、この頃学んだことが
今、まさに作詞家としての自分に役立っているのです。
成績は優秀な方でした。
体育以外の全部が「A」、という通知表ばかりだった私に
唯一「オールA」をくれたのは、先生でした。
ずっと出来なかった「逆上がり」が出来るようになった時。
その時だけは、とにかく苦手だった体育に「A」を
くださったのです。
体育の中でも特に水泳が大嫌いだった私に
夏休みの“補習”をすすめてくれて、付き合ってくれたのも
先生でした。
25mのプール。クロール。
どんなに頑張っても苦しくて22mほどで足をついてしまう私に
先生は、ものすごく怒りました。
「あと少しなのにどうしてそこで諦めるんだ!」
一番端っこのレーンで、必死にクロールをする私に
プールサイドからずっと大きな声をかけながら、歩いてくれて
生まれて初めて25mを泳ぎ切った時。
先生はものすごく褒めてくれて、喜んでくれました。
授業中、やたらと消しゴムを使うなとよく先生は言いました。
消せばいいんだからとテキトーに書くのではなく
緊張感を持って授業に挑め、と言いたかったのだと思います。
円周率は20桁だけ覚えればいいと、先生は言い
他のクラスの子が何百桁も覚えているのをよそに
うちのクラスは全員、20桁しか覚えませんでした。
答えが分かった時、右手を耳につくほどまっすぐ挙げて
クラスの全員が手を挙げ終わるまで、そのままにさせました。
早く答えが分かった人ほど、手が痛くて
今思うと何て仕打ちだ!と思うけれど、それが先生のやり方でした。
その頃流行っていたナップザックやシャープペンシルを
先生は一切禁止しました。
でもそのお陰で、私はランドセルを大事に6年間使い
“鉛筆で書く”ことが、大好きになりました。
算数の問題を解くのに、黒板の前で説明したことがありました。
でも私の言い方がとても分かりづらいと
先生は、答えが合っているのに私を叱りました。
みんなの前で私は恥をかきました。
あの時の、どきどきは今もズキンと残っています。
クラスの誰かが悪いことをすると、クラス全員
廊下に出て行けと言われました。
先生は後ろの机に座ったまま、何か仕事をしていて
みんなで話し合って対策を考え、謝りに行くまで
全員が教室に入ることを、許しませんでした。
あの怖い顔。忘れられません。
先生は、卒業式の日
一粒の涙も流さず
誇りを持って、この生徒たちを送るんだという
本当に素敵な笑顔でした。
母は、あの時の先生の笑顔が忘れられないと
今でも言います。
先生。
私が、学区でトップの高校に入学出来たのは
先生が「勉強のしかたを教えてくれたから」です。
今私が作詞の仕事をしているのは
先生が「作文や日記をたくさん書かせてくれたから」です。
先生は間違いなく
私という人間を「つくった」人です。
高校を卒業後、大学に進まずに
音楽の道を選んだ私を、先生は心配なさっていたようです。
2012年。
私は結婚式に出席していただけないかと
何年ぶりかに先生に手紙を出しました。
生徒の結婚式への出席は全てお断りしているから
との返事をいただきました。
だけど、そこからしばらく途切れていた年賀状のやりとりを
また始められました。
そして2014年。
先生に20年ぶりにお会い出来ました。
しかも、先生と一緒に「お酒を飲む」なんてことが叶いました。
もうとっくに定年されて、もう「先生」ではなくなった先生は
やっぱり少し老けて、前より太っていたし
あぁ先生も先生である前に一人の人間なんだな、と思って
すごく不思議な感覚になりました。
何百人という生徒を見ていらした先生が
私のことを覚えていてくれたことは、本当に嬉しかったです。
2015年。2016年。と年賀状のやりとりは続きました。
先生は、必ずお返事をくれました。
だけど今年。年賀状は返ってきませんでした。
あれ?と思ったけれど、心配していたのだけれど
日々の忙しさに埋もれて、その後先生にお手紙を出さなかったことが
今は悔やまれます。
もう一度、お会いしたかったな。
今日、先生の奥様から私宛に
先生が亡くなられたと書かれた、喪中ハガキが届きました。
先生。
お空の上で、今頃マラソンしてますか?
足腰が悪くなってもう走れなくなったと言っていましたが
きっと今頃身軽になって、元気に42.195km
走っていることと思います。
毎日何かを続けることの大切さを
先生から教わりました。
私、今でもこうして毎日日記を書いているんですよ。
でも今日の日記を読んだら先生はきっと
「長すぎる。もっとまとめなさい。」とおっしゃいますね。
最後にお会いした時
「弟さんは、どうしてる?」とおっしゃいました。
耳の聞こえない弟がいることを、覚えていてくれたこと
本当に嬉しかったです。
書いても書いても書ききれないくらい
思い出がたくさんあります。
先生に出会ったことで
私の人生は導かれたと思っています。
先生。
私を、「私」にしてくださって
ありがとうございました。
今日、先生のご訃報を知り泣いてしまったら
娘が「ママえーんえーん、だいじょぶ?」と
キスをしてくれました。
結婚し娘を産んで、今幸せに暮らしていることを
先生にお伝え出来て良かったです。
どうか安らかに
どうかゆっくりと
お休みください。
ありがとうございました。